日本の国際競争力への憂慮






日本の国際競争力への憂慮



 今年4月、国際経営開発研究所(IMD−スイス)は、世界主要49カ国・地域の競争力をランキングした「世界競争力年鑑」の2002年度版を発表した。米国が前年に引き続き一位をキープした一方で、日本は前年の26位から更に順位を下げ、30位となった。他のアジア諸国と比較してみると、昨年日本より下位にランクされたマレーシア、韓国に抜かれ、中国は僅差の31位となっている。日本の国際競争力の低下を象徴する結果となった。



  このランキングで、日本は1992年までは、総合首位であった。しかし、1993年に2位になった後は、順位を落として行く一方である。何故この様な状況になってしまったのか、又今後どの様になっていくのか、私の体験を踏まえ、心の中にある杞憂を書き綴ってみようと思う。



 IMDのランキングで最低と評されているものの一つに、大学教育の質の低さがある。
大学のレジャーランド化が叫ばれている昨今、私も大学時代に真面目に勉学に取組んでいた訳ではないので大きな事は言えないが、社会を今後引っ張って行く世代・層が切磋琢磨して行けない状況は、現在でも憂えるべきものだ。今後、どの様になっていくかと言うと、心もとない。
 更に気になるのが、今年の4月に施行された指導要領の改訂である。学校で習う円周率を「3.14」から「3」に切り替えるこの改訂は、世間でも様々言われているが、日本の生徒の学力の低下傾向を追認して行くだけとの懸念も声高い。



 昨今、小学校の学級崩壊が話題となっている。この背景には、1989-1990年にあった幼稚園・保育園の指導要領の改訂があったと言われる。
 1996〜97年、学生時代の夏休みに、小学校の水泳指導のバイトをする機会があった。十数年ぶりに小学校に通ったのだが、その時聞こえてきたのは「最近はどうもやり辛い」と言う先生方の声であった。
 話によると、昔は悪いことをした子を怒鳴ったり強く叱る事が出来たが、最近はその様な事をすると親から体罰と抗議されかねない。かと言って、家での躾も悪くなる一方で、非常に苦労しているとの事であった。ある先生曰く、「この学校の児童は素直でよい子が多い」との事だったが、それでも1〜2年生迄は、叱られていることは話しただけでは分らず、昔の様に強く叱る事も出来ずに、まるで宇宙人を相手にしている様、との話も聞かれた。



 この様な状況の元で、今回の指導要領の改訂が行われている。画一性や協調性の重視よりも、個々の個性を伸ばしていこう、とするこの試みは、これまでの製造業中心の社会から、創造性が重視される産業へとの転換期にある日本にとって、ある意味壮大な実験とも言える。しかし、現在、国内にそれだけの受け皿があるかどうかとなると、とても心もとないと感じてしまう。
 個々の個性を重視して、創造性を基盤とした国際競争力を保つためには、よりその個性を積極的に引き伸ばして行く環境作りが必要だ。具体的には、それぞれの児童・生徒の向き。不向きを考慮に入れた習熟度別の授業や飛び級を認める事など、児童・生徒の知的欲求と能力を十分に満たして行くだけの環境整備が重要だと考える。しかし、そこで差が出るのは良くないと、円周率を「3」にして、「皆さんよく出来ましたね」と同じ様な授業をしてしまうと、満足感の中で無駄に授業時間を過ごす児童・生徒も多くなってしまい、かえって悪平等ではないかとすら懸念してしまう。
 学校でカバー出来ない部分は、其々の家庭が重要な役割を果たす事になるのだが、子供の虐待があちこちで話題になる原状では、この部分も心もとない。



 一方で、アジアの各国は、一昔前の日本の教育制度を多くの参考として、教育の底上げを図っている。アメリカでも日本の教育制度をモデルにしようとする動きもある位なのだが、日本の教育制度は一体何処に行こうとしているのであろうか。私は教育の専門家ではないので、あまり大したことは言えないが、大教室でまとめて児童を指導する状況に変わりは無く、教える授業の内容を簡単にしてしまうのは、単に教育水準の底下げに繋がってしまうのではないかと心配になってしまう。



 この、一見悪平等とも見える中途半端な教育改革は、「日本型社会主義」と呼ばれる現在の日本の社会のあり方と無関係では無い。勿論、汗水流して仕事に追われる人々も少なくないが、競争原理の不徹底や起業マインドの欠如があちこちで聞かれている。



 勿論、そこそこの生活を送る事が出来れば、何も世界ランキングを争わなくても、と言う事も一つの選択肢である。
 しかし、これも果たして上手く行くだろうか。
 日本の国土で自給自足出来る人口は、江戸時代末期の3000万人程度と言われている。現在の日本の人口の生活をそこそこ維持するためには、1位になる必要は無くても、経済運営を上手く維持し、その上で海外からモノを買って暮らせるだけの関係維持は必須である。



 生活の上での実感は薄いが、日本の国債の格付けは、ついにボツワナ以下に下がってしまった。国・地方併せた国債の発行残高は670兆円を超えて、毎年30兆円程のペースで、刻一刻と増え続けている。仮に景気が回復しても、増税できるのは毎年6兆円程度と試算されているとの事で、これでは国債の金利が1%と仮定しても金利分にもならない。





 この事を招いた一つの原因は、度重なる公共投資による財政支出だ。1990年代初頭に掛けて、プラザ合意後の急速な円高により国内の製造業が海外に移転する中、国内では公共事業により支えられた建設業が雇用の受け皿となった。然し、この時に産業構造の転換を真剣に考えたのであれば、どうしてソフトウエア・ITや環境、サービスと言った次世代型産業の効率的な育成にもっと真剣に取り組めなかったのであろうか。今更こんな事をぼやいても仕方無いが、国家的な戦略形成において知恵を集積する事の重要性を切に感じる。一方で、昨今の外務省での騒ぎを見ると、この国の行方はこの先本当に大丈夫であろうか、と憂慮せずにはいられない。


草場 歩 (感想等はこちらへ) 2002.08.02





Date:  2003/7/2
Section: 海外羅針盤
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